伊吹の霊峰が旭に輝いていた。
小川が枯れ草から戻りの若芽をのぞかせ、水玉の音と光をかがよわせながら流れている。ときおり風が若芽をなでるように吹き過ぎるだけであった。
竹中家は、美濃国不破郡の豪族で、永禄元年(1558)、父の重元が斎藤道三の命で、関ヶ原の東北、菩提寺山城の岩手弾正を亡ぼしてそこを本拠とし、父の死により16歳で1万石の跡を継いだ。
このかいわいは,雪が一夜のうちに1メートルも降り積むきびしい環境にある。伊吹と養老山系にはさまれたその山道を、枯れ葉の音を聞きながら上っていると、内に火のような激しさを秘めながらも、いつも冷静・沈着であった半兵衛の姿勢は、こうした環境があったからこそ生まれてきたというおもいが強くわいてくる。
その後半兵衛は、秀吉の軍師として転戦する。秀吉は、中国攻略作戦を「三木の干殺し、鳥取の渇え殺し、太刀もいらず」と誇ったがその作戦のほとんどは半兵衛が立てたものである。
秀吉のもう一つの軍師に黒田官兵衛(如水)がいる。「両兵衛」と並び称されたが、半兵衛は知略、官兵衛は武略の人であった。半兵衛の子重門の建てた陣屋跡には、今も城門、石垣、堀、そして近くの禅憧寺には、半兵衛の墓が残っている。
垂井の地は、美濃一の宮でもあった。県内で最高の社格をもつ南宮大社がそれである。
神武天皇即位のときに創建。美濃の国の総鎮守とされたが、関ヶ原の戦いのときは安国寺恵瓊の陣地となった。
垂井の名は、玉泉前の根回り8メートルのケヤキの根元にわく泉からつけられた。垂井から大垣にかけては清らかな水の都、「詞花集」に、「昔見し垂水の水は変わらねど映れる影ぞ年をへにける」と歌われている。
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