射しそめたばかりの春の朝の陽光に,黒潮の波のしぶきが噴きあげる。しぶきは淡い霧となり、空の藍に染まって流れる。
それは、季節外れの海に浮かぶ蛍火ではないかと思われるほど美しかった。
志摩半島の最南端大王崎は、熊野灘と遠州灘の分界の海の難所。船の遭難や船幽霊の話が多いこの地は、戦国時代、海賊大将軍と言われた鳥羽城主九鬼嘉隆のふるさとである。熊野水軍の末裔の九鬼嘉隆が、大王崎の波切城主となったのは天文年間(1541〜)である。
嘉隆最初の拠点になった波切城址は、大王崎灯台をすぎた西の断崖の上、砦跡という看板を残す小さなあき地である。九鬼五代の墓は仙遊寺にあり、鳥羽湾側には、苔におおわれた石垣が深い木立に囲まれ、海のもののふ達の夢の跡がうかがえる。
嘉隆は,関ヶ原の戦いのとき西軍に味方し,東軍についた子の守隆と敵味方に分かれた。親子が東西に分かれてついておけば、どちらが勝っても家を存続できると考えていたともいわれているが、海の男の数々の栄光の戦歴が、家康につくことを許さなかったのであろう。
昔から,海の豪族は船を城と考えていた。石山本願寺攻めのとき、世界で初めての鉄張りの船6艘を主力とする三百の艦隊で、威力ある大砲で最強の毛利水軍八百艘を撃破した。
志摩は温暖な土地である。冬の季節風は紀伊山脈にさえぎられ、沖には黒潮が流れている。海賊の基盤は、漁師の生活の上にあり、岬の突端や丘の頂、火の見櫓など、三カ所以上の交点に結んで覚えておき、これを長男にだけ代々受け継がせていった。
戦国の熊野灘の潮煙の中からのし上がって風雲の海原に旭日の旗をかかげ、天下が平定されようとするときがくると、津波が引くように静かに沖へと消えていった九鬼嘉隆ーーーー。
その生涯からは、海の男にしかない壮快さが感じられる。
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