長雨の谷の奥から、鋭い草笛の音が響く。しばらくすると、峰の松林の中から、「ホーイ」と答える声がする。
やがて、濁流のあふれる瀬の岩の上に、目の粗い半纏を蔦のツルでしばった少年が現れた。近くの薮からひょいと顔を出したのは、草笛を吹いた晒木綿のお腰の少女である。
昔、山仕事の帰りに見かけたという老人の話である。時は昭和十年代、奥三河のできごとであった。
山窩(さんか)が祖先にしているのは、天の岩戸開きのとき、天照大神に諸物を献納した神イシコリドメ。天幕生活は、神代の時代、人間が穴居生活から抜け出したときの姿をそのまま受け継いでいるのだという。そんなことから自分たちこそ純粋の大和民族、国津神の直系と自負、昔ながらの独特の生活習慣を守っていた。
生活に便利な川原に住む場を決めると、流れの横の砂地に穴を掘り、布で砂止めをして水を入れる。そして焚き火で焼き石を作って投げ入れ、ほどよい湯かげんの野天風呂にするのだ。風呂作りは女性や子供の仕事。男達はその間に川筋へ魚を獲りに出かける。
雨や雪に弱い天幕生活なので、山窩(さんか)の神は太陽である。太陽とともに起き、太陽と共に寝る生活のなので、非衛生的な天幕生活でも、病弱者は皆無、健康的な生活をしていた。
山窩(さんか)出身の有名な人は、竹取物語の翁や出雲の阿国(おくに)、傀儡師や忍者であったという。
今は一般人に溶け込んでしまったが、作手村の大和田から奥三河、東濃の山地に入ると今もそんな話が聞けることがある。
山窩(さんか)が移動で通るのは、人目に立たぬ裏道。今でも,昼なお暗い杉林の杣道を歩いていると、貧しい衣裳をつけた眼光鋭い親子連れの数家族が、身のまわりの道具や天幕をかつぎ、足早に通り過ぎていく姿に出会いそうな気がする。過疎の山野に、そんな歴史の幻が浮かんでくる。
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