夜明けの陽光さしそめる土岐川には,志野焼の紋様が漂っていた。流れ出した陶土の溶ける水は淡雪を浮かべたように濁り、その中に、朝の陽の光が無数の薄紅梅色の玉になって光っていた。その風景は、この土地の生んだ名茶器、志野焼の風情を象徴したものであった。
東美濃の土岐は、羅生門で有名な源頼光の流れをくむ美濃源氏土岐氏の根拠となった土地である。始祖国房以来、4代を重ねることによって美濃国の武士の頭領となり、幾多の浮沈を重ねながら足利尊氏が幕府を開いたときには,「幕中筆頭の将、土岐絶えなば足利絶ゆべし」といわれるまでになった。
土岐は美濃焼の聖地である。その陶祖は、信長から朱印状をもらい、天正・文禄時代の茶道繁栄期に多くの名品をうみ出した加藤景光・景延父子である。 瀬戸天目、淡雪が降り積もったような光沢と薄紅色の紋様をもつ志野焼の名品はここから送り出された。景光は瀬戸に窯を持っていたが、信長の寵遇があつすぎて仲間にねたまれ、土岐の久尻に逃れて新しい窯を開き、正親天皇から筑後守の官名までもらった。子の景延も大陸風の唐津焼を研究、新様式の連房式登窯を築いて、白釉も開発、黄瀬戸・志野・瀬戸黒・織部等を生み出して、久尻窯の名を天下に広めた。美濃の名はそこから広がり、飛騨・越中・遠江にまで流れていく。
妻木氏は明智から分かれた土岐一族である。妻木川の峡谷に面した要害の地。妻木城を拠点に、尾張・三河の国境の守備についていた。
石積みの残る妻木城跡や武士屋敷は、小規模ながらも中世の面影をよくとどめ、戦国武士の夢の跡が偲べる。
このあたりから奥三河にかけては、化石植物ハナノキも生えている。
土岐は、化石と陶器と美濃源氏のふるさと、国境の土地らしく、戦国哀話も多く残っている。土岐川・妻木川といった名が郷愁をそそる。 |